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岡崎学区内に残された遺跡の数々を紹介します

❶ 延命地蔵道標(針崎町)1899年

 針崎郷公民館前に、高さ1メートルの石の道標が立っている。明治32年、岡崎駅南約1kmの若松町字北之切の三叉路に設置され、後に勝鬘寺門前脇、更に現在地へと移された。

 正面に「延命地蔵」、左側面に『右をかざきすてんしょ(岡崎ステーション) 左のばた』 右側面に『左ふくおか とろ 中じま かたのはら 西のこうり』と刻まれている。

 学区には他に「薬王寺前道標」・「柱北屋敷道標」・「柱南屋敷道標」がある。

​❷ 太夫塚古墳(若松町)5世紀後半

 太夫塚古墳は若松町字西之切にあり、標高15㍍の段丘に造られた古墳時代中期の円墳です。

 昭和47年に県教育委員会によって測量調査が実施され、昭和50年に県指定遺跡になりました。直径36㍍、高さ5.5㍍程で、周りを幅3㍍、深さ50㌢の周溝がめぐっており、須恵器の高坏・円筒埴輪・人物埴輪が出土しています。
 このほか学区には、若松町地内に「北之切古墳」「西之切古墳」などがあります。
(写真:岡崎市教育委員会提供)

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太夫塚古墳全景(昭和50年頃)

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太夫塚古墳出土品

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❸ 渡邉高綱戦死地碑

 針崎町朱印地にある、三河一向一揆の拠点となった勝鬘寺の墓地に、一向一揆の門徒方の勇将「渡邉高綱」(槍の名手守綱の父)の戦死地碑(写真左)がある。
 永禄7年(1564)1月11日、一向一揆上和田の戦いで徳川家康方の内藤家長(高綱の甥)の矢にあたって負傷し勝鬘寺までたどり着いたが、同17日、針崎の戦いで破れ、ここで戦死したと伝えられる。
 昭和54年8月に発願建立された碑(写真右)に、由緒書きが刻まれている。

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➍ 岡崎昔ばなし「金仏伝説」の等周寺

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伝説の金仏

 若松町南之切にある真宗大谷派の寺院で謝徳山等周寺と称する。御本尊の阿弥陀如来は昔ばなしで「金仏池」から掘り出されたと伝えられる「金仏」である。創立年代は詳かではないが開基は道敬(1574年没)といわれている。当寺は―向―揆の拠点となった本證寺(現安城市)の末寺であったことから、―向―揆に巻き込まれ、一時破却された。その後、四代玄甫の時(1663年)に現在の地に新たな堂宇が建造された。現在の本堂は、明治中期(1890年)頃に再建されたものである。
 山門前の道は昔の鎌倉街道で、蓮如上人が当地をお通りになった時に植えられたという「こがねもち」の大木(ふるさとの名木指定)があった。

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明治中期に再建された本堂

❺ 羽根 稲荷神社の「力石」

 岡崎市羽根西2丁目にある稲荷神社の拝殿(写真㊧)東側の塀近くに、表面がつるつるした楕円形の珍しい石(写真㊦)が安置されている。 
 この石は「力石」と呼ばれており、高さ約30㎝、長 さ約50㎝の石で、いわれは定かではないようであるが、その昔人生儀礼の一つとして、子供組を抜けて、ようやく一人前の扱いを受ける「若者組」に加入する時、試練としての「力だめし」などに使われたのではないかと思われる。その重さは、100Kg近くあると考えられ、指のかかるところがなく持ち上げにくいようである。
 地元の古老の話によるとこれを持ち上げた人がいたとのことである。
(参考文献:岡崎南風土記)

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稲荷神社拝殿

拝殿東側にある「力石」

❻ 柱二丁目 南岡山 正覚寺

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正覚寺本堂

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 JR岡崎駅の西にある真宗大谷派の寺院で、本尊は阿弥陀如来である。創立は文亀二年(1502年)で開基は、誓珍法師(1435年~1514年)と言われている。
 当寺は、もとは幡豆郡吉良庄岡山郷に道場があって、これを、春崎(現針崎町)の勝鬘寺の脇寺として移したのが始まりである。第十三世住職義竟(ぎきょう)は、本堂の位置するところが高原にあり、風災害に度々遭うことを憂いていた。一方、「柱村」には寺がなかったことから、「柱村に寺を移転すること」が発願され、明治十六年(1883年)に本堂が現在の場所に移築された。現在の本堂は、平成十三年に再建されたものであり、
 境内には、建て替えのために解体された本堂の大きな鬼瓦(高さ約1.9m、幅約2.5m)が保存されている。また、書院には誓珍法師が蓮如上人より拝受したとされる「阿弥陀如来絵像御本尊」が掛けられている。

© 2021 岡崎学区総代会 学区通信「おかざき」編集室

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